鹿の舟のいま

海龍王寺

4月を迎え、気持ち新たにお過ごしの方も多いのではないでしょうか。
新しい元号の発表に始まり、新学期や新年度を迎え、
これから新しい環境で頑張る方もおられることと思います。

そんな皆さまを応援するかのように奈良町でも、
桜をはじめ春の花が見頃を迎えています。

前回もお伝えした春の花めぐり、4月になるとまた新たに見頃を迎えた花もあり、
日本の四季の細やかな移ろいを感じます。

本日の奈良は雨模様で、花が散り始めるのが心配ですが、
天気の良い昨日までの[鹿の舟]では、
桜の花をはじめ、「雪柳」の花が春を彩りました。

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柳のように枝垂れる枝一面に、可憐な花が白く咲き誇る雪柳は、
花吹雪が粉雪のように美しく舞い、訪れる方の目を楽しませてくれています。

この雪柳で有名な寺院が、奈良市内にあるのをご存じでしょうか。


平城宮跡の東北に位置する「海龍王寺」。

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雪柳が見頃の先週までは、白い花が参道の土壁と重なり、
より赴きある風景を生みだしています。

こちらも、先週の見頃を少し過ぎ、本日の雨で雪柳の花吹雪が舞い始めていますが、
それもまた、春の風を感じる風景となっています。

雪柳の参道を抜けると、本堂や西金堂がぱっと目に飛び込んできます。

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本堂では、先週末まで十一面観音菩薩立像の特別開帳が行われ、
多くの方が参拝に足を運んでおられました。

光明皇后のお姿を彫り上げたとも言われるほど美しいこの観音さまは、
長く秘仏であったことから状態も良く彩色がとてもきれいに残っています。

また、西金堂は奈良時代に建造された貴重な建物で、
中には、こちらも奈良時代に作られた4.1メートルの五重小塔が安置されています。

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五重小塔の精巧な造りと佇まいの美しさに、
当時の職人の技術力の高さを垣間見ることができます。

この西金堂の向かいには、東金堂跡があり、
明治時代の廃仏毀釈の影響を受けるまでは、
こちらにも五重小塔が納められていたといいます。

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今では基壇しかありませんが、当時の様子を想像しながら眺めると
感慨深いものを感じます。


また、これらの季節の花や建物・仏像の素晴らしさはもちろんですが、
海龍王寺では、少し特徴的な催事が行われます。

来週4月18日に催される「四海安隠祈願法要」。

海龍王に世界の平和や自然への感謝、
そして渡海する方々の安全を願い、厳修されるこの行事。

なぜ、海のない奈良で、海にまつわる法要が営まれるのでしょうか。


実はこの法要は、海龍山寺の歴史と深い結びつきがあり営まれています。

海龍王寺は、飛鳥時代、あたり一帯を治めていた土師氏の氏寺
「土師寺」として創建されましたが、
710年の平城遷都の際には、藤原不比等氏が土師氏から土地を譲り受け、
平城宮のすぐ東に位置した藤原不比等氏の邸宅の一部となりました。

邸宅の北東の隅に位置していたことから、土師寺は次第に、
「隅寺」や「隅院」と呼ばれるようになったようです。

その後、藤原不比等氏の娘である光明皇后がこの邸宅を相続してからは、
隅寺は皇后宮内の寺院として存在していました。

光明皇后は当時、遣唐使として唐に渡り最新の仏教を学んでおられた
玄昉氏の帰国を願い、また、平城宮の東北(鬼門)の方角を護るため、
隅寺の堂舎を増やしたり、伽藍を整備されました。

その後、玄昉一行の帰国が決まり、一行は日本に向かうのですが、
航海の途中で嵐にみまわれ、とても大変な思いをされたそうです。

この時、玄昉氏は航海の安全を願い、海上で海龍王経を唱えておられました。

玄昉一行は唐から無事に帰国することができ、735年に平城宮に戻り、隅寺の住職となりました。

このことに因み、玄昉が嵐の中を帰国した旧暦3月(現在の4月)に合わせて、
お寺に伝わる龍王の御魂と、海龍王経、そして全国各地から届く海水を壇上に安置し、
「四海安隠祈願法要」が催されます。

隅寺が「海龍王寺」と命名されたのも、玄昉氏の唱えた海龍王経に由来しています。

海を越えて様々な文化が伝わってきた奈良だからこそ、
海との繋がりを大切にしているようにも感じられます。


歴史ある海龍王寺の春、
雪柳は見頃を終えましたが、桜はあと少し、楽しめそうです。
奈良町から少し足を延ばして、寺院散策してみてはいかがでしょうか。

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