鹿の舟のいま

手まり

「観光案内所 繭」にある『讃岐かがり手まり』。

 

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讃岐地方に伝わる昔ながらの郷土玩具で、草木染めした木綿の糸を使い、

様々な花や伝統模様をかがり、すべて手仕事で作られています。

 

色の濃淡が美しい、香りつきの小さな手まりもございます。

 

 

手まりの始まりは、飛鳥時代の頃に

中国から伝来した「蹴鞠」であるといわれています。

 

蹴鞠用の鞠は、毛が裏になるように円形に縫い合わせた2枚の鹿の皮に

大麦を詰め膨らませながら形を整え、

表面に膠(にかわ)を塗り、白い顔料の鉛白で化粧をし、

穀粒を取り出してから穴を閉じて作られます。

 

6名から8名で、鞠を地面に落とさないよう、

相手が蹴りやすいように蹴渡し合いながら楽しみます。

 

蹴り始めや、合間、蹴り終わりの際には決められた作法がありますが、

勝ち負けはつけず、和やかに楽しまれていたようです。

 

 

大化の改新を行った中大兄皇子と中臣鎌足との出会いは

法興寺(飛鳥寺)で行われた蹴鞠会でした。

 

法興寺は日本で最も古い本格的な仏教寺院であり、

奈良町にある元興寺の前身です。

 

日本書紀には、蹴鞠の最中、沓(くつ)を落とした中大兄皇子に気づいた

中臣鎌足が、その沓を拾って捧げる場面が綴られています。

 

こちらの故事にちなみ、2人が大化の改新の談合を行った多武峰(とうのみね)にある

談山神社では、今も春と秋に「けまり祭」が催されています。

 

 

その後も各地で蹴鞠の会が行われ、

平安時代には、空高く投げ上げ、地面に落とさないように受け止める

「手毬」遊びも生まれました。

 

この頃の手毬は芯に糸を巻いただけの簡素なものでしたが、

室町時代になると、絹糸を巻いて作る手毬も生まれました。

 

蛤などの貝類に砂を入れて音が出るように工夫がされていたり、

真綿で包み、絹糸でかがって作られていました。

 

嫁入りのときには、相手の家を丸くおさめるようにと願いを込めて、

大切に持っていったようです。

 

江戸中期には木綿糸が広く普及したため、

それまで上流階級の人たちが楽しんでいた「手まり」が一般の人たちにも広まり、

玉を色々な糸でかがって作られるようになりました。

 

手毬の芯を見ると、もみがらや古い布きれ、海草など、

日々の暮らしの中で手に入る素材が使われています。

 

この頃の手毬は、正月の女の子の遊びとして、とても人気がありました。

 

明治中期、ゴム毬の普及で人気が衰退した糸毬ですが、

地方や山間部で、糸手毬遊びや作り方が母親から娘へと伝えられ、

細々と継承されてきました。

 

現在では、「讃岐かがり手まり」をはじめ、

長野県の「松本てまり」や、栃木県の「野州てんまり」など、

遊び道具としてではなく、伝統工芸品として目にすることができます。

 

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1400年前から時代に合わせて愛されてきた手毬は、

とても奥が深いものでした。

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