鹿の舟のいま

大極殿

草原の中で荘厳と佇む朱雀門、大極殿。

 

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1300年前、奈良の都として栄えたこの地から、

古き時代を思い起こすことができます。

 

 

大安寺や薬師寺も平城京の敷地内にあり、

[鹿の舟]がある場所も外京に含まれることから、

当時の規模の大きさが想像できます。 

 

大極殿の手前に立ち、周りを見渡すと、若草山をはじめとする山々、

興福寺や薬師寺も遠目に見ることができます。

 

当時の平城宮の敷地を横切るように線路が走り、

大阪や京都から奈良に向かう電車が朱雀門の脇を通り過ぎてゆきます。

 

電車に乗っていると、「間もなくこの電車は平城宮跡を通過します。

右手に朱雀門、左手に第一次大極殿がご覧いただけます。」

 

という観光地ならではの放送を聞くことができます。

朱雀門と大極殿は、他府県からのお客さまを

はじめに奈良へお迎えすることになります。

 

この案内に合わせ、多くの観光客が窓に目を向ける姿が印象的です。

 

 

「平城京」は710年に元明天皇によって藤原京から遷都され、

政治の中心地として栄えました。

 

平城遷都が行われる前のこの地は、

農村と水田が広がり、古墳もいくつかあったと伝えられています。

発掘調査によると、一部の古墳が壊されていたことが明らかになり、

平城遷都による環境の変化はとても大きかったようです。

 

 

「平城京」とは奈良時代の首都を意味し、

「平城宮」はその中心にある宮殿郡のことを指します。

 

平城宮は唐の長安城を範して作られたといわれています。

 

当時の日本は、世界最大級の都市であった唐に遣唐使を派遣し、

積極的に異文化を取り込んでいました。 

 

北に山、南に池、東に川、西に道があるという

中国の陰陽思想に当てはめると、

平城の土地は都としてふさわしい場所のようでした。

 

碁盤の目のように走る道路と、南北に延びる朱雀大路を中心に、

儀式や政務を行う「大極殿」「朝堂院」、天皇の住まいの「内裏」、

役人が勤める役所群がありました。

 

周囲は築地回廊で囲まれており、

外では都に勤める役人や庶民の住宅、多くの寺院が立ち並びます。

 

元明天皇は、朱雀門から北に真っ直ぐ延びた先に大極殿を設けました。

これを「第一次大極殿」と呼んでいます。

 

その後、聖武天皇は現在の京都、大阪、滋賀に都を移しており

大極殿は回廊とともに解体・移築されました。

 

聖武天皇が滋賀から再び平城宮に戻ってこられた際、

第一次大極殿のあった場所には、称徳天皇の西宮が設けられ、

大極殿は、以前の大極殿の東側の当初は内裏のあった区画に

造り直されました。

 

その後、長岡京に遷都するまでの大極殿は

「第二次大極殿」と呼ばれています。

 

平城遷都1300年に合わせて復元された大極殿は

元明天皇が建てられた大極殿をいいます。

 

平城宮の正門にあたる朱雀門では、外国使節の送迎が行われたり、

多くの男女が歌い舞い踊るなど様々な行事が行われていました

 

正月には天皇が門まで出向かれ、新年のお祝いをすることもありました。

 

 

平城京の入口の羅生門から朱雀門まで延びる「朱雀大路」は、

幅が約75メートルととても広い道路です。

 

外国使節が歓迎の儀式を受けた後、威儀を正して朱雀大路を行進しており、

儀式の場としての機能も持ち併せていたため、特に広く造られていたようです。

 

 

784年に長岡京に都が移ると、いままで栄えていたこの地は荒れ果て、

1000年以上のあいだ水田として使われていました。

 

そのため、地下には奈良時代の建物の跡などが良い状態で残っており、

今でも発掘調査が行われ、新しい発見が生まれています。

 

 

まだ荒れ地であったときに電車の線路を通し、

その後、復元が行われたために、

結果的に線路が敷地を横切る形になりました。

 

 

整備された今では、たくさんの人々が平城宮跡を訪れ、

思い思いの時間を楽しんでいます。

 

スポーツをして遊ぶ子供たち、

ゆったりと散歩をするご夫婦もいれば、

ランニングに励む若者たちもいます。

 

広く見通しの良いこの場所は、とてものどかで心が休まる場所であります。

 

 

地上で過ごす私たちと、地下に眠る史跡。

 

 

いにしえの奈良と現代の奈良、二つの時代が共にあるこの地に

ぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか。

 

 

梅の木が花を咲かせ、春を告げていました。

 

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